サクラダファミリア(櫻田家)ルーツ2
【探索】曾祖父の正体と静寂の宇和島

父親の戸籍謄本
祖父の姓(私の旧姓)
父から祖父の話を全く聞いたことがありません。
戸籍謄本を取り寄せて知ったのだけど祖父が亡くなったのは父が6歳のとき、そりゃあ全く覚えてないでしょうね。
そして、そのとき初めて知りました。
姓が途中で変わっていました。
私の旧姓ではなく、戸籍を見て知った改姓前の姓が九州ではまったく聞いたことないものでした。
先祖は四国にいると父から聞いていたので、では四国に多いのか?
すると四国にはない、元々は東北などにある姓ですよ~とそういうのは今どきはAIに聞けばすぐに教えてくれますね。そして・・
曾祖父の名前を検索したらヒットしました!
文献
だれでも閲覧可能です。


書いたのは愛媛大学の歴史研究家みたいな人の作ったサークルでした。
伊達政宗の長男秀宗の家臣の一族と書かれています。
秀宗は長男ではあるが庶子、家督は告げぬゆえ四国に飛ばされたというわけです。
この時代、兄弟でも殺し合うことはよくあることですから政宗も案じたのでは?
そしてその秀宗にのこのこと付いていったのが我がご先祖様のようでした。

本当にそうなのか?
結果、喜界島の前にこっちやろーとご先祖様から導かれたのかも?
私のファミリーヒストリー、大河ドラマ、サクラダ・ファミリア(姓が櫻田)のような驚きの事実でした。
伊達博物館にて
学芸員からのお話/曾祖父の光り輝く??足跡
宇和島市立伊達博物館で曾祖父の真実と対面することになりました。


曾祖父は1835年生まれです。
宇和島櫻田家文書資料集の要約
櫻田家代々の人物について記しています。
曾祖父はは幼名を「殿馬」といい、後に「梅軒」と名乗った人物です。
幕末の緊迫した動向(1860年代)
曾祖父は宇和島藩主(伊達宗城公)に従って、江戸や京都を奔走していました。
- 将軍家への随行: 将軍・徳川家茂の供をして日光山へ参詣したり、第二次長州征伐に従軍したりと、幕府側の重い役目を果たしていました。
- 戊辰戦争での活躍: 明治元年(1868年)、鳥羽・伏見の戦いの後、曾祖父は宇和島藩の一軍を率いて各地を転戦しました。特に、旧幕府軍側についた松山藩を降伏させるための交渉や進軍に関わったことが記されています。
櫻田家が直面した「罪」と「救済」
資料の後半には、曾祖父が一時、政治的な対立や混乱の中で「罪」に問われたことが記されています。
- 謹慎の日々: 彼は東京で軍務官に出頭して論じましたが、結果として謹慎(塾居)を命じられます。
- 名誉の回復: しかし数年後、「これまでの功績がある」として罪を許されます。その後、家名は嫡男が継ぎ、曾祖父自身は「梅軒」と名改めて隠居生活に入りました。
明治の新しい時代へ
- 禄高の変化: 明治の改革(版籍奉還や秩禄処分)により、櫻田家の収入(食録)が「千二百二十石」から変化していく様子が書かれています。
- 苗字の固定: 明治3年に、それまで通称など色々あった名称を「一名に定めた(苗字を固定した)」という、近代的な戸籍制度への移行を思わせる記述で締めくくられています。
この資料の面白いポイント
- 宇和島藩の忠義: 藩主・伊達宗城公を支え、幕府と新政府の板挟みになりながらも、必死に藩のために動いた武士の姿がリアルに伝わります。
- 歴史の転換点: 「太陽暦を廃し、太陰暦となる(※実際は逆ですが、暦が変わったことへの言及)」など、生活の根底が変わる時代の混乱が記録されています。


篤姫以来です、こんな豪華な・・
彼の歩んだ道は、まさに幕末という激動の時代を駆け抜けるものでした。
宇和島藩の八代藩主・伊達宗城公に仕え、参勤交代の列に加わり、江戸と宇和島を往復する日々。
さらには戊辰戦争の折、藩の使者として仙台藩への説得という重責を担ったという記述。
そして最も心に響いたのは、「梅軒」という名の由来です。
私はてっきり、引退後の趣味(俳人?的な名前)で自ら名乗ったものだと思い込んでいました。
しかし事実は、明治3年の隠居に際し、七代藩主・伊達宗紀公(当時100歳という長寿を全うされた名君です)から直接、功績を称えて「贈られた」名だったのです。

桜に梅って「貴公」もお茶目?ね~
藩主から名を賜る。
それは武士として、これ以上ない最高の名誉だったに違いありません。
宇和島は、日本一、二を誇る早さで桜が咲きます。春の訪れをいち早く感じられる宇和島に、「春山(しゅんざん)」と号する藩主がいました。
その藩主は、宇和島藩7代藩主伊達宗紀です。
宗紀は、弘化元(1844)年に55歳で隠居すると、春山と号し、「天赦園(てんしゃえん)」(現在は国名勝)で余生を過ごしました。
宗紀は、100歳(公式年齢※)まで生きた長寿大名としても知られています。
明治22 (1889)年5月から行われた100歳祝いでは、花火などの催しがあり市中も大いににぎわったようです。
私が訪れたときも寒かったけどだいぶ桜が咲いてました。
家紋
さらに驚くべき事実を知ることになりました。それは、我が家に伝わる「家紋」の由来です。
これまで当たり前のように見てきたその意匠は、なんと伊達家が考案し、櫻田家へと授けてくれたものだったのです。
さらに曾祖母のこと

宇和島藩において櫻田家と並び称されるほどの名家であり、この婚姻関係は当時の「家格」の高さ(武家社会におけるステータス)を如実に物語っています。
宇和島藩における「志賀家」
宇和島藩において、志賀家は代々「家老」や「奉行」などの重職を務めた最高幹部クラスの家系です。
櫻田家(家老職)と志賀家(重臣)という組み合わせは、藩内でもトップクラスの身分同士による、いわゆる「名門の家柄同士の縁組」であったことがわかります。
が、しかし・・
「家」の存続という重圧: 安政の入籍から明治の退隠まで、櫻田家が「櫻田家」として存続できたのは、志賀家から来た女性が11人の子を成し、血筋を繋ぎ止めたという事実があります。
歴史の転換点と家庭: 1855年(安政2年)の結婚は、封建社会のピーク。1886年(明治19年)の隠居は、近代国家としての形が整った頃。彼女の人生は、まさに「古い日本の終わり」と「新しい日本の始まり」を、母として、妻として、裏側から支え続けた歳月だったと言えます。

名門?私はいやや、こんな人生・・
そして祖父のこと
しかし、その眩しすぎるほどの栄光を知れば知るほど、私の胸には一つの影が落ちます。
一族の誇りを受け継ぎ、藩主から名を与えられた曾祖父。
一方で、10番目の子として生まれ、通字も貰えず「十吉」という数字の入った記号のような名で呼ばれた祖父。
名門の重圧と、その中で「余り物」のように扱われた寂しさ。
祖父が後に「櫻田」という輝かしい名字を脱ぎ捨て、新しく生きる道を選んだのは、このあまりに巨大すぎる父の背中から、自分自身を解き放つための決断だったのではないでしょうか・・
伊達博物館の静かな展示室で、私は曾祖父の功績と、祖父の孤独な決意を、同時にような気がしました。
消えた名前と、生き続ける血
「宇和島にはもう、櫻田を名乗る者は一人もいません」
その言葉を聞いたとき、一瞬、一族の歴史がそこで途絶えてしまったような寂しさを感じました。
しかし、すぐに思い直しました。
名前という記号は消えたかもしれません。
祖父が名を変え、故郷を離れたエピソードなど、宇和島での櫻田の歴史は幕を閉じたのでしょう。
それもよきかな・・

